KJV マタイCH5

 

5章 山上の垂訓 1

欄外にTR(テキストレセイプタス)とNU(ネストレアーランドテキスト)の比較を掲載

The Sermon on the Mount

1[i]さて、彼は[ii]群衆を見て、山に登られた。そして座られると、弟子たちが彼のもとに来た。

The Beatitudes

(Psalm 1.1-6Luke 6.20-23)

2[iii]そこでイエスは口を開いて、彼らに教えて言われた。

3「心の貧しい者は幸いである。

その人たちにこそ、天の御国[iv]があるからである。

4悲しむ者は幸いである。彼らは慰められるからである。

5[1]柔和な者は幸いである。彼らは地を受け継ぐからである。

6義に飢え渇く者は幸いである。彼らは満たされるからである。

7憐れみ深い者は幸いである。彼らはあわれみを得るからである。

8[2]心の清い者は幸いである。彼らは神を見るからである。

9平和をつくり出す人々は幸いである。彼らは神の子と呼ばれるからである。

10義のために迫害されてきた者は幸いである。その人たちにこそ、天の御国があるからである。

11わたしのために、人々が汝らをののしり、汝らを迫害し、汝らにむかってあらゆる偽りの悪口[3]を言いふらす者があっても、汝らは幸いである。

12喜びなさい。何事よりも快哉しなさい。天にある汝らの報いは大きい。汝らの前にいた預言者たちも、同じように迫害されたからである。

Salt and Light

(Philippians 2.12-18)

13[v]汝らは地の塩である。しかし、もし塩がその[vi]持ち味を失ったらどこで[4]塩味をつけるのであろうか。そうなったら、何の役にも立たないので捨てられて人の足で踏まれるだけである。

14汝らは世の光である。丘の上にある都市を隠れることはできない。

15人はろうそくに火をつけてブッシェルの下に置くのではなく、燭台の上に置く。そうすれば、それは家の中にいるすべての人に光を与えるのである。

16汝らの光を人々の前で輝かせて、人々が汝らの善行を見、天におられる汝らの父をあがめるようにしなさい。

Jesus Fulfills the Law

[5]17わたしが律法や預言者を廃棄するために来たと思ってはならない。廃棄するために来たのではなく、成就するために来たのである。[vii]

18本当に汝らに言う、天地が過ぎ去るまで、すべてが成就するまでは、律法から一字一句漏れることはない。

19それゆえ、これらの最も小さな戒めを一つでも破り、そのように人に教える者はだれでも天の国で最も小さい者と呼ばれるであろう。

しかし、これらの戒めを行なって人に教える者は、天の国で大いなる者と呼ばれるであろう。

20汝らに言っておくが、汝らの義が律法学者やパリサイ人の義を超えないかぎり、汝らは決して天の御国に入ることはできない。

Anger and Reconciliation

(Luke 12.57-59)

21汝らは、昔から彼らがこう言っていたのを聞いたことがある、『汝は殺してはならない。殺す者はだれでも、さばきを受ける危険がある。』

22しかし、汝らに言っておく。誰でも理由もなく[viii]兄弟に腹を立てる者は、さばきを免れない[6]。また、兄弟に向かって、『ラカ』と言う者は、審問を免れない。また、だれでも『愚か者め』と言う者は、地獄の火を免れない。。

23 それゆえ、汝の供え物を祭壇にささげようする時に、汝の兄弟が汝に敵意を抱いていることを思い起こすなら、

24その供え物を祭壇の前に置いて行きなさい。そして、まず汝の兄弟と和解してから、来て汝の供え物を捧げなさい。

25汝に敵意を持つ者とは、汝が彼と共に歩む間に早く和解しなさい、いつその敵が汝を裁判官に引き渡し,裁判官が汝を官吏に(引き渡し)[7],汝が獄に入れられるかも知れないから。

26わたしは汝に言う、汝が最後のコドラントを納めるまでは、決してそこから出られない。

Adultery

(Leviticus 18.1-30)

27あなたたちは、『姦淫してはならない』と、古の人たちに言われたと聞いたことがあるだろう[8]

28しかし、あなたたちに言っておくが、女を見て欲情する者は、心の中ですでにその女と姦淫を犯したのである。

29もし汝の右目が汝に罪を起こさせるなら、それを抜き取り、汝から捨てなさい。汝のからだ全体が地獄に投げ込まれるのではなく、汝のからだの一部の部分が滅びることが、汝にとって益だからである。

30もし、汝の右手が汝を躓かせるなら、それを切り落とし、汝から(投げ捨てなさい)[9]。汝にとって有益なのは、汝のからだの一部分が滅びることであって、からだ全体が地獄に投げ込まれることではない。

Divorce

(Deuteronomy .1-5Luke 16.18-18)

31『妻を離別する者は、離婚届を彼女に渡しなさい』と言われている。

32しかし私はあなたがた言う。だれでも姦淫以外の理由で自分の妻を離縁する者は彼女に姦淫の罪を犯させることになる。また、離縁された者と結婚する者は、だれでも姦淫を犯すのである。

33また、[10]古の人たちにこう言われたと聞いたことがあるだろう

『汝は自分自身を放棄するな、しかし主への誓いを果たさなければならない』

34しかし、わたしは汝らに言う。決して誓ってはなない。

天によって誓ってはならない。それは神の御座だからである。

35地によっても誓ってはならない。それは彼の足台だからである。 エルサレムによっても。それは大いなる王の都だからである。

36汝の頭によっても。汝は髪の毛を一本も白くすることができず、黒くすることもできないからである。

37しかし、汝らの口からは、『はい、はい』、『いいえ、いいえ』と言いなさい。これより多いものは、悪から来るからである。

38あなたがたは、「目には目を、歯には歯を」と言われているのを聞いたことがある。

39しかし、汝らに言っておく。汝の右の頬を打つ者があれば、もう一方の頬も打たせなさい。

40もし誰かが汝を法に訴えて、汝の上着を取り上げようとするなら、その人に汝の上着も持たせなさい。

41汝に一マイル行くよう強いる者は、二マイルで行きなさい。

42汝に求める者に与えなさい。汝から借りようとする者に、汝は背けるな。

43『隣人を愛し、敵を憎め』と言われているのをあなたがたは聞いている。

44しかし、わたしはあなたがたに言う。汝の敵を愛し、あなたがたを呪う者たちを祝福し、あなたがたを憎む者たちに善を行い、あなたがたを不当に利用し[11]あなたがたを迫害する者たちのために祈りなさい。

45それは、あなたがたが、天におられるあなたがたの父の子となるためである。父は、悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださる。

46もしあなたがたが、汝を愛する人たちを愛したら、どんな報いがあるのか。取税人ですら同じではないか?

47もしあなたがたが兄弟たちだけに挨拶しているとしたら、どこが他の人たちより優れているのか。[12]取税人[13]もそうではないか?

48[ix]だから、天におられるあなたがたの父が完全であるように、あなたがたも完全になりなさい。



[1]柔和な者は幸いである。彼らは地を受け継ぐからである。

柔和は、聖霊の実である。しかし、御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、

Gal 5:23  柔和、自制であって、これらを否定する律法はない。クリスチャンは、柔和であろうとして

 

[2] Heb_12:14  すべての人と相和し、また、自らきよくなるように努めなさい。きよくならなければ、だれも主を見ることはできない。

 

[3] 11 ῥῆμα 

[4]salted塩で味をつられる、

[5] 5:17-43 

[6] 22 νοχος免れないliable

[7] 25 Strong's Greek: 3860. παραδίδωμι (paradidómi) -- to hand over, to give or deliver over, to betray

[8]27 Ἠκούσατε ὅτι ἐρρέθη τοῖς ἀρχαίοι Strong's Greek: 1500. εἰκῆ (eiké) -- without cause or reason, vainly  it hath been said by them of old time,TR

[10] 27

[11] v44 εὐλογεῖτε τοὺς καταρωμένους ὑμᾶς, καλῶς ποιεῖτε τοῖς μισοῦσιν ὑμᾶς, καὶ προσεύχεσθε ὑπὲρ τῶν ἐπηρεαζόντων ὑμᾶς, M,TR

bless them that curse you, do good to them that hate you, and pray for them which despitefully use you,

 

[12] τελναι publicans取税人(M,TRθνικοNU)異邦人

[13]47 τελναι publicans取税人(M,TRθνικοNU)異邦人



[i]51-48

山上の垂訓は、クリスチャンが地上において生きる意味がのべられている。1節と10-11節には、天国について書かれている。そして、2節から9節まで、地上の生活の指針とその報いが書かれている。

それは、クリスチャンは、心の貧しい者、つまり、天国の喜びのために、この世の喜びについて関心の薄い者のことである。また、10-11節までは、天国について無関心であり、また、地獄について無警戒である人々に、天国の存在と永遠の命を強く言い張るクリスチャンは、この世の喜びにしがみついている人からの迫害は逃れられない。このことは宿命である。

 

そして、3-9節で、クリスチャンは、この世において他人に益を与える振る舞いを通して、地の塩、山の上の都市、燭台の上の灯としての役割を果たし、天国のかおりを緩やかにこの世の人々に知らせていく生き方のことである。

この生き方をすることによって、もちろんクリスチャンも神様の祝福を受けて、この世でも安定した生活をすることができるが、必ず意識していなければならないのは、このような生活は、あくまで他人のためであり、自分自身のこの世の平安のためではない。これは、キリストの教えの中で、一貫したことである。

神は、このような生き方をするクリスチャンを、この世の扱いにおいても最優先にされる。

 

[ii] 5:3,4 5章の山上の垂訓の中で、3節と10節は特別な地位を占めている。

「その人たちにこそ」と強調されているのである。

英語では、「for theirs is the kingdom of heaven.」と

4-9節は、地上における報いであるが、この二つの聖句で紹介されている人々は、「天国」が約束されているからである。

彼らは同じクリスチャンではあるが、他のクリスチャンより天国の報いが優先的に約束されている。

「心の貧しい人たち」がなぜ特別に幸いなのか、_21:31イエスは言われた、「よく聞きなさい。取税人や遊女は、汝らより先に神の国にはいる。「_11:12  バプテスマのヨハネの時から今に至るまで、天国は激しく襲われている。そして激しく襲う者たちがそれを奪い取っている。」

[iii] 自由意志で神の律法に仕える

クリスチャンは、確かに自由意志をもってイエス・キリストを受け入れなければ救われない。同時に、クリスチャンは、救われた後にも自由意志によって働くのでなければ報いを受けることができない。

クリスチャンは、山上の垂訓で教えられた方法で生き、地の塩、山の上の都市燭台の上のともしびとして自分を神の器として捧げなければ、地上においても、天国においても神からの報いを受けることは出来ない。

山上の垂訓には、クリスチャンがなすべきすべての生き方についての詳細が書かれていて、パウロ、ペテロ、ヨハネ、ルカの書簡は、キリストの教えを補完するためにある。

Gal_5:1  自由を得させるために、キリストはわたしたちを解放して下さったのである。だから、堅く立って、二度と奴隷のくびきにつながれてはならない。

Gal_5:13  兄弟たちよ。あなたがたが召されたのは、実に、自由を得るためである。ただ、その自由を、肉の働く機会としないで、愛をもって互に仕えなさい。

1Co_6:12  すべてのことは、わたしに許されている。しかし、すべてのことが益になるわけではない。すべてのことは、わたしに許されている。しかし、わたしは何ものにも支配されることはない。

1Co_10:23  すべてのことは許されている。しかし、すべてのことが益になるわけではない。すべてのことは許されている。しかし、すべてのことが人の徳を高めるのではない。

 

 

[iv] 53天国は近づいた

マタイの福音書では、バプテスマのヨハネと、イエス・キリストとが「天国は近づいた、悔い改めて福音を信ぜよ」と命じている。

天の国はすべての新約聖書の中で、マタイ福音書だけに書かれていて、マタイ福音書33回書かれている。

従って、マタイの福音書では、天国が非常に重要なテーマなのである。

さらにマタイ福音書には、クリスチャンが天の国で受ける報酬とその注意事項について書かれている。

 

 新約聖書の最初の巻きで、イエス・キリストが「天国は近づいた、悔い改めて福音を天国について語られていることは、イエス・キリストが来臨された目的が、天国について教え、意味がある。他の福音書、他の書簡の全ては、神のしもべとして、この世においてすべき正しいクリスチャン生活について書かれ、それに忠実であることによって報酬を得られる方法を教えている。

 

 新約聖書の最初の福音書のテーマが天国についてであって、最後の書簡である黙示録の、最後の章である黙示録がその報いについて書いてあるのは、象徴的なことである。

Rev 22:12  「見よ、わたしはすぐに来る。報いを携えてきて、それぞれのしわざに応じて報いよう。」とあるのは偶然ではなく、新約聖書、旧約聖書全体が天国にて良い報酬を受けさせようとする神のみ旨を知ることが出来る。

 

天の国の報酬を得ようとしている人は、商売や、農業や、漁業など、報酬や収穫のために働いている人たちに似ている。

マタイ自身がもともとレビという、商人の一種の取税人(人々に嫌われてはいたが)で、売買についての知識が豊富であった。

 

また、キリストが最初に召集された弟子たちは、ペテロ、アンデレ、ヤコブ、ヨハネという、漁師であった。

つまり、クリスチャンは、雇用主である神が定めた働き方に忠実に働くことによって、天の国における正当な報酬を受けることができる。

マタイ福音書は、主にそれを教えるために書かれている。

 

① 天の国について、バプテスマのヨハネが宣教したマタイ32節と、イエス・キリストが宣教した417節を見てみよう。

二人は、天国に入るためにまず、悔い改めなければならないと説いた。

Mat_3:2  「悔い改めよ、天国は近づいた」。

Mat_4:17  この時からイエスは教を宣べはじめて言われた、「悔い改めよ、天国は近づいた」。

この場合「悔い改め」ることとは、この世の富、快楽や等、あらぬ方向に向いている心を、自分達の創造者である神と、旧約聖書に預言され、待望するようにと命じられていたメシヤに心を向けることである。

クリスチャンは、イエス・キリストが自分の罪のあがない主、救い主であることを受け入れるだけでは十分ではない。イエス・キリストを、メシヤ、全能の神に油を注がれた権威者、また、聖書に説明されている、神の子であって、ご自身も圧倒的な権威と力の持ち主であることを信じなければならない。

 

➁ 天国は、何が何でも手に入れる価値がある。

Mat_11:12  バプテスマのヨハネの時から今に至るまで、天国は激しく襲われている。そして激しく襲う者たちがそれを奪い取っている。

 

 心の貧しい人たち・・ルカによる福音書では、貧しい人たち、実際上経済的に貧しい人たちのことも、あるいは、社会の底辺にいる人たちのことも言っている。心の貧しい人たちは、その心に富への執着、快楽、プライド等の天の国の富以外のものが無い心であることである。

イエス・キリストは、「取税人、遊女、罪びとと呼ばれている人たち」のことだと言われている。彼らは主に招かれた時に、喜んで自分の人生を変えた。

マタイやザアカイは得た富を手放し、ペテロやアンデレ、ヨハネやヤコブは、舟と網を捨てた。その他の人々も、自分の人生を形作ってきたものを放棄してイエス・キリストにしたがったのである。

彼らは、天の国という、彼らを評価してくれる場所には、積極的に加わろうとし、そのためには、イエス・キリストを信じて受け入れた。

Mat_5:3  「こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。

 

③ み言葉を実践する事によって報われる

イエス・キリストがせよ、言うことと、使徒たちがせよ、と言うことのすべては、実践することによって、天に宝を積むことになる。

 

Mat_5:19  それだから、これらの最も小さいいましめの一つでも破り、またそうするように人に教えたりする者は、天国で最も小さい者と呼ばれるであろう。しかし、これをおこないまたそう教える者は、天国で大いなる者と呼ばれるであろう。

 

④ Mat 6:21  あなたの宝のある所には、心もあるからである。

 

天に宝を積んだクリスチャンは、喜びがあります。

パウロも天に宝を豊かに積むように勧めています。

 

Col_3:1  このように、あなたがたはキリストと共によみがえらされたのだから、上にあるものを求めなさい。そこではキリストが神の右に座しておられるのである。1+6

Col_3:2  あなたがたは上にあるものを思うべきであって、地上のものに心を引かれてはならない。

 

[v] の塩:塩は、汚れを清める働きがある。

クリスチャンが信じた直後に天国に移動しないのは、この世で地の塩、山の上の都市、そして燭台の上のあかりとして、他の人々のために働くためにこの世に残されていることを知らなければならない。

つまり、クリスチャンがこの世に残されているのは、自分のためではない。まだ天国を知らず、永遠のいのちを得る方法を知らない他人2-12節のあり方を通して、自分自身を天国の案内人にするためである。

 

肉や魚や野菜などが腐るのを遅らせ、食用に使うことができる。

また、塩は、動物の生存に不可欠な物質である。すべての動物は、命がけで塩がある所を探す。また、人間は塩分が無ければ死んでしまう。

クリスチャンが地の塩としていきることは、2-4節で山上の垂訓でイエス・キリストが教えられた生き方に従って生きることである。

① 2節 悲しんでいる人はさいわいである。

クリスチャンは、地の塩、山の上の都市、燭台の上のともしびとして自分自身を他の人々に、4-柔和、義、あわれみ、

神は、クリスチャンが2-4のように生きるために訓練をされる。

 

Mat 5:4  悲しむこと・・自分が神の前で悲しんでいる人たちは、さいわいである、彼らは慰められるであろう。

Jas 4:8  神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいて下さるであろう。罪人どもよ、手をきよめよ。二心の者どもよ、心を清くせよ。

この世の人々のように、神について、道徳について、他人に対する愛について鈍感な人は、安逸をむさぼっているが、その結果は

 

2Co_7:10  神のみこころに添うた悲しみは、悔いのない救を得させる悔改めに導き、この世の悲しみは死をきたらせる。

 

Jas 4:9  苦しめ、悲しめ、泣け。あなたがたの笑いを悲しみに、喜びを憂いに変えよ。

Heb 12:11  すべての訓練は、当座は、喜ばしいものとは思われず、むしろ悲しいものと思われる。しかし後になれば、それによって鍛えられる者に、平安な義の実を結ばせるようになる。

 

② 5節 柔和は、聖霊の実である。

柔和も父である神の訓練の結果与えられるものである。(Heb12:11

③ 

Mat 5:5  柔和な人たちは、さいわいである、彼らは地を受けつぐであろう。

 

Mat 5:6  義に飢えかわいている人たちは、さいわいである、彼らは飽き足りるようになるであろう。

義は、神に正しいと認められることである。

Mat 5:7  あわれみ深い人たちは、さいわいである、彼らはあわれみを受けるであろう。

 

Mat 5:8  心の清い人たちは、さいわいである、彼らは神を見るであろう。

Mat 5:9  平和をつくり出す人たちは、さいわいである、彼らは神の子と呼ばれるであろう。

 

 

クリスチャンは、この世の汚れに染まって天国の存在を表せなくなってしまうことを悲しむべきである。

クリスチャンは、イエス・キリストを信じて受け入れた時に永遠のいのちを約束され、真の自由を得ているが、その自由を自分の利益のために使うのであれば、すでに塩味を失っている。そのクリスチャンは、クリスチャンという名を使うには恥ずかしい存在である。

 

クリスチャンは、この世の人々に上記の良い行いという塩味を通して神の国を知らせる役割がある。

第一に、3節と10-11節にクリスチャンは、3節のように、この世の富を貧しいものとみなしてそれを捨てて天にある物を得ようとする姿勢によって、天国の存在を教えるべきである。

第二に、クリスチャンは、聖い生活という塩味によって、天国の存在を知らせるべき責務がある。

2Co_2:14  しかるに、神は感謝すべきかな。神はいつもわたしたちをキリストの凱旋に伴い行き、わたしたちをとおしてキリストを知る知識のかおりを、至る所に放って下さるのである。

2Co_2:15  わたしたちは、救われる者にとっても滅びる者にとっても、神に対するキリストのかおりである。

2Co_2:16  後者にとっては、死から死に至らせるかおりであり、前者にとっては、いのちからいのちに至らせるかおりである。いったい、このような任務に、だれが耐え得ようか。

Eph_5:2  また愛のうちを歩きなさい。キリストもあなたがたを愛して下さって、わたしたちのために、ご自身を、神へのかんばしいかおりのささげ物、また、いけにえとしてささげられたのである。

Php_4:18  わたしは、すべての物を受けてあり余るほどである。エパフロデトから、あなたがたの贈り物をいただいて、飽き足りている。それは、かんばしいかおりであり、神の喜んで受けて下さる供え物である。

次に、マタイの福音書全体が、天国と、地上での働きに対して、地上と天国とで与えられる報いについて書いてある。

Mat_16:27  人の子は父の栄光のうちに、御使たちを従えて来るが、その時には、実際のおこないに応じて、それぞれに報いるであろう。

マタイ福音書のテーマは、1.天国、2.報い。3.地上における生き方3.

 

 

[vi]風味、持ち味 (英)塩で味をつけた、

[vii] [vii]私が来たのは、廃止するためではなく、それを実現するためなのだ。

マタイ5章17節

わたしが律法や預言者を廃するためにきた、と思ってはならない。廃するためではなく、成就するためにきたのである。

 「律法や預言者」には、基本的に二つのことがあります。一つは救いに関する事であり、

私が来たのは、廃止するためではなく、それを実現するためなのだ。

マタイ5章17節

1. 律法は人間が幸せに生きるために神によって定められました。

律法は本来、厳格で、人の自由を拘束するための規則としてではなく、私たち人間が、秩序を保ち、幸福になるようにと神様が制定されたものです。

2. イエスは、律法は罪深い人間にとって最も効果的な律法であると言いました。

そして、この律法は、人間が肉にある限り、最も有効な法律なのです。イエス・キリストは、人間が肉にある罪人である限り、律法は有効だと仰せになっています。マタイ5:17

3. そして律法は、平和な神の王国を実現するために不可欠な事項です。

そして、律法こそ、平和と喜びとの神の国の実現のために絶対必要であるからこそ、それを行う人は称賛されると言われているのです。5:19

ところで、律法を真剣に研究してそれを細かい所まで実践しようとしたのは、律法学者やパリサイ派の人々でしたが、キリストの弟子は、彼ら以上に義・・神様に正しいと認められなければ神様の国には入れないと仰せになりました。5:20

4.The Law has tow essential element. One is the to love God, and the other is to love neighbor.

そして、律法には基本的に2つの重要なポイントがあります。それは、旧約の時代でも、新約の現代でも同じものです。

その2つのポイントとは、一つは神様を愛する事で、もう一つが隣人を愛することです。

イエス様は、2つのところでそのことを明白に語っておられます。マタイ22:3519:16

一つは、ある律法学者がイエス様に、質問した時に答えられました。

この二つは、旧約聖書のレビ記1918節と、申命記65節に書かれていることですが、この事が、律法の全ての精神を集約した重要な戒めだと仰せになったのです。

さて、クリスチャンは、二つの律法を実行して神様から祝福をいただけるのですが、私たちにはそれが実行できるのでしょうか?

5.But can we do that two law?

Paul was good student of the law. But he said that he himself could not do the law.

パウロは有力な律法学者でしたが、その実行は彼自身ができなかったと告白しています。

 

6.The reason why is we have the character to opposite the rightiousness.

その理由は、私たちの肉にある罪の性質は、義に反対する性質を持っているからです。

義の基準が明らかでなければ、罪は働くことができません。しかし、義の基準が明らかになると、罪の性質は、あえてそれを破らせようとして誘惑するのです。

私は車に乗ると、確実にスピードメーターを意識します。そして、その次には、自分が制限速度以内で走っているかどうかを考えます。そして、次に意識するのは、捕まらない速度です。50キロ制限の中で、どれだけの違反だったら捕まらないだろうかと考えています。心の中では、制限速度を意識して、それを超えてはいけないという心と、逆に、あえて60キロ、70キロを出してやりたいという誘惑が働いているのです。

律法でも同じことが言えます。律法を行っている人は、その束縛の中にいる事が窮屈に感じて、かえってそれを破りたいと言う誘惑にかられるのです。そして、だんだんと律法は形骸化して、神様が人間を幸福にするために作った律法が、かえって、人を束縛するだけのものになってしまったのです。7:9

7.We can do the Law by the Holy Spirit.

それでは、どうすれば、律法学者やパリサイ派の人々以上に義を行えるのでしょうか?

その上でパウロは、イエス・キリストの十字架の贖いによって与えられた、聖霊による力によって勝利を得たと証ししています。Romans7:25

神様は、肉にある人間を何とか神様のルールに合わせさせて幸福にしようとなさいましたが、肉のうちにある罪はそれを実現する事ができないのです。

そして、キリストが私たちの罪の問題を解決してくださった事によって、律法ではなく、聖霊様という、心の導き手によって勝利を得、幸福を得られるようにして下さったのです。

8.The Holy Spirit gives us the most effectual direction to our mind directly.

聖霊様は、どこでも統一した規格でしか使えない律法と違い、私たちの心に直接働いて、その場その場で最も有効な指示を与えてくださいます。

たとえば、80キロの高速道路から一般道路に変わると、40キロか50キロ制限になります。制限速度だけを意識していても、スピード慣れしていると、60キロや70キロで走っても大丈夫のような気がしています。しかし、聖霊様は、私たちの心にそのスピードでの事故の確率や、事故の大きさを意識させて、スピードの出しすぎを未然に防ぐようにしてくださるのです。免許の書き換えの時には、悲惨な事故現場のビデオを見させられますが、「道路で制限速度を守りましょう」というような標語よりもよほど効果があります。聖霊様は、いつも私たちと一緒にいて、真に霊的な幸いと危険とを深く悟らせてくださり、平安で、幸いなクリスチャン生活に導いて下さるのです。

イエス様の体には、罪は存在しませんでしたが、罪の肉体のような姿を取られました。そして、一度死んだその肉体を、聖霊様がよみがえらせる事によって、信じる私たちの罪の肉体も、一度死んで、その後よみがえるようにしてくださいました。

ようにしてくださいました。

 

[viii] 22 ὁ ὀργιζόμενος τῷ ἀδελφῷ αὐτοῦ εἰκῇ without a cause理由もなく(M,TR)、 ργιζόμενος τ δελφ ατοNU

[ix] 548節 だから、天におられる汝らの父が完全であるように、汝らも完全になりなさい。(17-48

完全な人間は、天におられる父なる神のみ旨を完全に行うクリスチャンのことである。神のみ旨を行うこととは、4-9節を地上において完全に実行することである。すなわち、訓練のための悲しみをいとわず(4節)、柔和で(5節)、義を求め(6節)、あわれみ深く(7節)、聖い心を持ち(8節)平和を作り出す(9節)クリスチャンのことである。

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